子供の頃、庭に柿の木が生えていた。
それ程大きくはないが、秋になると、木のあちらこちらに色鮮やかな柿の実がなっていた。
本当に小さい頃、柿という食べ物を認識していない私はつゆほど興味を持たなかったが、
柿という食べ物を認識してからは、評価は一変、割と興味津々だった。
しかしながら、そうそう旨い話はないもので、
興味津々な私をたしなめる様に、庭の柿の木の事を、家族が教えてくれた。
残念ながら、実家の庭に生えていたのは渋柿の木だった。
なんでも、兄か私が生まれた際、ある程度大きくなったら柿が食べられる様に、
誰かが植えたらしいのだが、あろう事か、間違って渋柿の木を植えたらしい。
なんとも締まらない話だ。
桃栗三年柿八年。
とにもかくにも、見事我が家の庭に根をはり、立派に成長したのは渋柿だった。
このやらかし具合は、他人事では無い。
現在までに、時々盛大な勘違いをやらかす私は、間違いなく、
その血筋だと今なら実感できる。
私が悲しそうな顔で渋柿を見ていたのを気の毒に思ったのか、
祖母だったと思うが、庭の渋柿を処理し、庭先にヒモで吊るして、干し柿を作ってくれた。
小学生の頃までは、作ってくれていた様に思う。
懐かしい思い出だが、これももはや食べる事は叶わない。
後日、渋柿とやらは、どれ程渋いのか気になった私は、辺りに家族がいない一人の時に、
木からもいでかぶりついてみた。
一瞬、微かな甘みを感じた。
なんだ、甘いじゃないかと安心したのだが、直ぐにじわりじわりと、口中に渋みとえぐみが広がった。
そのあまりの強烈な感覚に、しばらく私は悶える事となった。
とてもじゃないが食べられたものではない。
さすが渋柿。その名前は伊達では無かったと、私は身をもって学んだ。
これは、良い経験になった。
世の中には、食べてはいけないものがある事をシンプルに実感できたからだ。
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