子供の頃、稲刈りを手伝っていた

秋になると、子供の頃、稲刈りを手伝っていた事をたまに思い出す。

稲刈りには複雑な思いがある。

私の実家は農家で、秋といえば、稲刈りシーズンの真っただ中。

昔の稲刈りの作業量はとても多い。
稲を機械で刈る → 機械は、刈った稲をある程度まとめて縛る。 →人がそれを簡易的につくった干し竿(名称忘れた)の様なものにかけて天日干し→ ・・・等々。

家族総出で農作業をするのだが、小さい子供の選択肢は家にいるか、家族と一緒に手伝うかの2択だった。

正直、手伝いはあまりしたくなかった。

いや、家族を手伝いたいという純粋な気持ちは確かにあったのだが、基本、農作業に終わりはない。
最初は張り切って作業を行うが、1~2時間もして気づくのだ。
全く進んでいない事に。
あれ?
これ、終わるのか?
真面目に終わりが見えない。
しかし、周りの家族が働いているので、自分も動かざるを得ない。

などと考え始めたら最後、子供の純粋な気持ちなんて、ものの見事に摩耗してしまう。
途中から後悔、夕方頃には「無」になる。

当然、子供に重労働はさせないのだが、(例えば、干し竿に稲をかける大人に、手渡しで地面の稲を渡す係等)
一日中、田んぼの中にいるのは、軟弱な足腰には、それだけでとてもこたえるものだった。

成長し、友達と遊ぶ事を覚えると、稲刈りをするぐらいなら遊びたいと考える様にもなったと思う。
但し、実際に遊ぶと、ふとした瞬間に「手伝いさぼったなぁ」と罪悪感に苛まれがちになり、心の底から楽しめなかったりもする。

そんなこんな、気持ちに折り合いをつけ、なんだかんだと手伝いをした日は、疲労困憊となるが、
家族の役にたったと、少し誇らしく思う自分もいた。

また、面倒な事を積み重ねなければ、自分が普段食べている「米」は手に入らないという事を子供の頃に実感できたのは、
悪くはなかったのかもしれない。

子供の頃、月明かりの中、延々と稲を渡し続ける記憶は、
「(本来は)食べ物は簡単には手に入らない」という明確な事を今でも思い出させてくれる。

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